◆中山城付近から前森山を望む
中山地区の歴史
中山の名所・旧跡
永禄・元亀の頃に、奥州の伊達氏・輝宗が現在の置賜地方を領するや
家臣である中山弥太郎が、最上氏の領地に接する地に防塞として天守山に
城砦を築いたのが、中山城とされています。
(この中山は、城将中山氏の姓をとって地名となったと云われています。)
この中山城は典型的な山城で、本丸は天守山に配し大手に向かって二の丸、三の丸
上杉氏の時代には、その下に御役屋・馬場後と続きます。
また、中山城正面に位置する小高い山、前森山には山頂部に狭い郭を有しその周辺を帯曲輪や
三角状の曲輪が囲み、前森山楯として中山城の防塞の楯として機能しておりました。
その他、中山城の周辺にある山・最上領に近く標高424mの物見山の山頂には最上氏の動向を
監視する物見櫓が設けられ、不穏な動きがあった場合「狼煙」を使って連絡を取っていました。
また、片倉山には上ノ山楯と呼ばれる長さ数十間土を築きあげた城塁が現在も残っており、
本丸を有する天守山を中山城と言っていますが、一説には郭と帯曲輪を有した前森山と
物見櫓を配した物見山、天守山の北側に位置し城塁を配した片倉山の3カ所を含めた一帯を
中山城と言っていたとされているようです。
対する最上氏は、高楯城(又は上山城)を国境の最前線の要衝として中山城と
対峙しておりました。
伊達氏の後、蒲生氏が入封しましたが僅か8年で宇都宮へと移封しました。
慶長3年に上杉景勝が越後から会津若松120万石に入封し、家臣の直江山城守兼継が
米沢城主6万石に据えられ米沢の最北端、最上領に接する中山城には横田式部旨俊を
城主に据えられました。
慶長5年(西暦1600年)直江状に端を発し、石田三成の挙兵で始まった関ヶ原の戦いと
時を同じくして勃発した、北の関ヶ原とも云われた慶長出羽合戦では、
直江山城守兼継率いる上杉軍と、最上義光を大将として迎え撃った最上軍が戦火を交えました。
(後に、伊達政宗家臣・留守政景率いる3000が最上氏への援軍として介入)
この中山も、最上領と接する最前線基地として機能し最上領侵攻に際しては
中山城主・横田式部旨俊をはじめ、上杉勢の第2軍の主将・本村造酒丞親盛、清水三河守康徳
と共に、長谷堂城を攻撃中の主力軍に合流する為上山に軍を進めました。
(第2軍は主力軍に次ぐ約4000の兵力を持っていた。)
対する最上軍は、高楯城を預かる里見民部・里見権兵衛、天童から来援した草刈志摩守他
地元の郷民合わせて500の兵力でしかなかったが、上杉軍の侵攻路について事前に察知した
草刈志摩守は300の兵を率いて「物見山、沢入り中山」という場所で待ち伏せ、
里見民部・里見権兵衛は残る兵力をもって長清水〜藤吾方面へと出陣し待ち受けていた。
中山と上山の間は山間部を縫う細い道がほとんどであり、4000もの兵を移動させるには
隊列を細長くせざるを得なく、前後の連絡が取り難くなる事にもなった。
また、上杉軍は度重なる行軍で兵が疲れていた事もあり、上山勢はこの弱点を突く
作戦に打って出たのである。
上杉軍の先頭が「赤坂上の台」に到着した時、里見民部・権兵衛率いる正面軍と
草刈志摩守率いる奇襲部隊が一気に攻撃を開始し、長々と伸びきった上杉軍の隊列は
挟み討ちに遭いたちまち混乱に陥ってしまいました。
乱戦状態の中、第2軍の主将である本村造酒丞親盛が討ち取られるなど、多数の軍兵を率いる
部将が討死するという不本意な苦戦を強いられました。
◆中山城付近から物見山を望む
◆中山城付近から上ノ山楯を望む
◆中山地区詳細図
◆中山地区全体図
◆中山城址
◆中山城付近から高岡山を望む